六月二十四日は、謙信記念日2013年05月18日 20時23分33秒

木村康裕著『戦国期越後上杉氏の研究』(岩田書院)を読んでいて、ふと以前からの疑問が再燃しました。
「上杉家文書」の御堂関係史料に、毎月二十四日は、謙信にとって「記念日」であると書いてあります。何の記念日なのかが分からず、先ごろ出した拙著『神になった戦国大名』では言及できなかった部分です。とは言え、「六月二十四日」という日付だけは本文に残しておきました。毎日、謙信に供える食事(生身供=しょうじんく)の部分(p108)です。毎月二十四日朝には、四目御膳となっていて、平日の三汁七菜よりグレードアップしています(まあ、元日や祥月命日はもっと豪華になるんですが)。
ただし、時代が下ると簡略化・略式化がされ、月ごとだったものが六月のみになります。つまり毎月祝っていたものが、月命日に対する祥月命日のように、同月同日のみに変更されたということです。六月二十四日の「謙信公記念日」。
いったい何の記念日なのでしょうか。
で、木村氏の本を読んでいて、アレ?と思ったことがひとつ。「上杉謙信の願文」という項で、木村氏が「上杉謙信の願文一覧」をまとめていらっしゃって、永禄七年六月二十四日に弥彦神社(2通)、姉倉比売神社、御看経所に願文を捧げています。しかも、木村氏によれば、1年後の永禄八年六月二十四日に愛宕神社へ出した1通も「永禄七年の誤りの可能性もある」と指摘されています。
そして、月こそ違えど、謙信が天正三年四月二十四日に願文2通を捧げています。
ちなみに、永禄七年のものは武田信玄悪行の事、天正三年のものは北条氏政非分に関するものです。
先の謙信記念日と、この願文、果たして関係あるのか? 謙信自身が二十四日に拘っていたのだろうか?

上杉謙信と奥州白川氏(2)2012年04月02日 15時35分45秒

要するに、この文書Bがおかしいのだ。

(永禄十年)貳月拾日
不説(白川義親)→山内殿(輝虎)
「如蒙仰未申通候之處」「当口之□□□義重・盛隆申合候」「委細林泉寺相雇御口問申候條」
(『越佐史料』所収「白川證古文書」)

白川七郎義親が不説を号するのは、もうちょっと後。佐竹から義広(後に蘆名氏へ入嗣)を養子に送り込まれてからというのが一般的。
と、するとこの山内殿は謙信ではなく、景勝か。
そう考えて、調べてみたら、『上越』(2274)に天正十年カとしてある。そういえば、『上杉景虎』書いてた時に景勝が山内殿と宛名書きされている文書を調べてた時に見てるはずだよなあ。迂闊。

ということは、(1)の輝虎・憲政の書状に対して、白川氏の返書はなかったのか?、伝存していないだけなのか?
というわけで、(1)で掲げた文書は、以下の順番&年次比定になる?

A(永禄九年)十二月十三日
輝虎→本庄美作守

C(永禄十年→永禄九年)三月十五日
輝虎→白川七郎(義親)

E(永禄十年→永禄九年)四月七日
上杉憲政→白川七郎

D(永禄十年)卯月二日
輝虎→松本石見守・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫

B(永禄十年→天正十)貳月拾日
不説(白川義親)→山内殿(輝虎→景勝

CとEの日付の微妙な間隔も気になる。輝虎が白川氏へ通信を試みたところ、返答がなく、焦った輝虎が越後の憲政にサポートを依頼したのだろうか。何せ、白川は北条方だし、すぐには信用を得られなかったものか。文書Eで、憲政が「此由能々隠密可然候」とかいわくありげなこと書き立ててるし。
いずれにしても『越佐史料』は良い史料だが、けっこうヤバイこともあるのでアル。

上杉謙信と奥州白川氏(1)2012年04月02日 15時05分13秒

菅野郁雄著『戦国期の奥州白川氏』(岩田書院)を読んでいて、ちょっと整理してみた。

A(永禄九年)十二月十三日
輝虎→本庄美作守
「石見守ニ金子相添厩橋へ差越候処ニ、無退ニ相留、丹後守召連、南方陣へ差渡候事」(『上越』543)

B(永禄十年)貳月拾日
不説(白川義親)→山内殿(輝虎)
「如蒙仰未申通候之處」「当口之□□義重・盛隆申合候」「委細林泉寺相雇御口問申候條」
(『越佐史料』所収「白川證古文書」)

C(永禄十年)三月十五日
輝虎→白川七郎(義親)
「雖未申通候」「佐竹義重累年申談、此度同陣悉皆表裏之刷」「那須資胤ニ別而懇意之由」「猶北條丹後守可申候」(『越佐史料』所収「白川證古文書」)

D(永禄十年)卯月二日
輝虎→松本石見守・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫
「丹後守陣所江夜懸ニ成共及調義」(『上越』554)

E(永禄十年)四月七日
上杉憲政→白川七郎
「追而以両使申届候」「近年佐竹間之義、無是非次第候」「輝虎致内談密事申越候」(『上越』557)

文書Cについて、『上越』(503)では永禄九年に、『新潟』(3208)は永禄十年に比定している。お互いに通信が初めてと書き合っている文書Bとの親和性を重んじれば、文書Cは「如蒙仰(おおせをこうむるごとく)」で応じている文書Bの前に書かれたものと考えるのが自然。また、永禄十年では、北条丹後守の裏切り発覚(文書A)から輝虎が陣所へ夜討ちをかけよと命じている(文書D)間に輝虎の副状をしたためていることになってしまう。
ただし、永禄九年としても、一方で、佐竹と対立し、那須氏と懇意だという白川氏に書状を送ったのに、その返信には那須の文字は見られない。何となく噛み合ってないような気がする。
それに、文書Cが永禄九年三月十日でよいとして、その返書と見られる文書Bが翌永禄十年二月十日ではいくら何でも間遠すぎる。
北条丹後守が副状をしたため、それを林泉寺が雇った使者が運んだのか?

文書Eについては、「両使」が憲政&輝虎からの使者だとすれば、文書Cとともに永禄九年に比定するべきか?
この頃の輝虎は焼きがまわっていたか、佐竹を同陣させようとするがうまくいかず、結局、佐竹と敵対している白川氏と接触。しかも、初交信なので、隠居の憲政を頼りにする始末。
しかし、永禄十年十月頃には北条=白川の同盟復活、同時に北条と佐竹の和睦は破綻、上杉=佐竹となり、上杉と白川の間で交渉がもたれた形跡はないようだ。
今で言うなら、SNSで「お友達になりませんか?」「OK!」で何も発展せずに終わってしまった、といったところか。